お茶ゼミブログ

2022/9/25 国語 秋元
「ふと秋元先生のことが気になって検索してみたら、、」的な書き出しも共通していて、もちろん嬉しいのですが、なんだか怖い気もします。
僕の身に何か起こる予兆なのでしょうか。とりあえず電車のホームの近くには立たないようにしました。
あ、あと最近古いお弁当を食べたら大変なことになったので、賞味期限を気にするようになりました。
さて、今回の話は「試験の手応え」について。
模試や授業の予習でけっこうできた、と安心していたら結果はボロボロだったとか、
逆に全然できなかったーと落ち込んでいたら、むしろ今まで一番偏差値が上がっていて戸惑ったり、
という経験はみなさんにもあるのではないでしょうか。
僕が手応えのギャップを痛感したのは、1浪の入試のときです。
10校受けたうち、中央大学と慶應義塾大学の環境情報学部(1期生入試!)だけは合格する、と思いました。
あまりに自信があったので、中央大学の合格発表の日、仕事から帰ってきた母親に「母さん、きっと受かっているから、今から見に行ってみなよ」と言いました。
「本当に受かっているのかい?」
「うん、あれは受かったと思うよ。母さんに一番最初に喜んでほしいからさ。たくさん苦労かけたし。見に行ってきなよ」とまで言いました。
おふくろはそのまま原チャリで暗い中、中央大学まで行きました。ご存知かと思いますが、中央大学は山の上にあります。
「番号、なかったよ…」僕の自信のせいでとんだ親不孝をすることになりました。
慶應の環境情報はもっと自信があったので、発表当日、父親を誘って見に行きました。
行きはよいよい、帰りはこわい、といいますが、帰り道は地獄でした。
親父と二人でそのまま寿司屋に行って、無言で食べました。
親父の優しく寂しそうな柔和な横顔を覚えています。僕は親不孝してばかりです。
2浪のとき、第一志望の早稲田大学第一文学部は100%落ちる確信がありました。
受かるわけがないアクシデントがあったからです。
ですから掲示板に僕の番号があったときは生まれて初めて腰が抜けました。
腰が抜ける、という慣用表現は実際にあるのだなー、と妙なことに感心した記憶があります。
この、自己認識と現実との乖離はいったい何なのでしょうか。
いくつか要因を考えましたが、結局のところ僕にはよくわかりません。
ただ、一つ確実に言えるのは、「誰もが解ける問題は1問たりとも落としてはならない」、
逆にいえば「誰もが解けるであろう問題だけは徹底して正解することが合格の絶対条件」、
より精確にいうと「あー、これは解けたはずだったな」というミスを1問たりとも出さない、
そういう精神状態で臨むことが、最も合格に至らしむるのだと思います。
要するに「淡々と」です。
「淡々と」の境地に至るためには「受かるだけの準備」をしておく必要があります。
今日もまたその「準備」を一つでも多く、です。
淡々と。